指紋のように

みなさん、おはようございます。
先日の70周年記念礼拝は、神様の真実さ、忍耐、恵み豊かさを味わう素晴らしい時となりました。この日のために準備にあたってくださった皆さん、祈り支えてくださった皆さんの働きも本当に素晴らしいものでした。私にとって印象的だったのは、ソレンティノ先生の長女キャシーさんのお手紙と長男ポールさんの祝辞で引用された聖書箇所が同じピリピ書1章の挨拶の箇所だったことです。そして、私が教会のことを考える時にまっさきに思い浮かぶ箇所も同じみことばです。
兄弟姉妹たちの労苦や忠実さ、愛をよく知っていればこそ、それらすべてをもたらしてくださる神様の恵みと主イエス様の忠実さが際立ちます。というのも、教会の歩みに表れる信仰と愛と希望に根ざした忍耐が神様が真実に働き続けてくださっていることのしるしだからです。皆さんの労苦の中に神様の忍耐が、皆さんの奉仕にイエス様の忠実さが指紋のようにくっきりと浮かび上がるのです。

“あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。” ピリピ 1:6

リモート参加された方々が70周年のビデオをちゃんと見られなかったようですので、ご覧いただけるよう準備しています。少しお待ちください。

佐々木真輝

迷うとき

みなさん、おはようございます。
昨日の午後、ポールさんたち、将司先生たちが無事に到着しました。一緒に夕食をいただくために予約していたレストランに行ったのですが、皆さん(自分も含め)なかなか注文を決められません。お店の人も「まだかなあ」という感じを出さないようには気を遣ってましたが、だいぶ待ってもらって何とか注文もまとまり、無事に食事にありつきました。
いろいろ迷って、悩んで、なかなか決断できない、選択ができない、ということは時々ありますね。思慮深くあらゆることを検討して決める人もいますし、思いつきや直感に従う人もいます。誰かに決めてもらいたがる人もいます。いつでも確信をもって決められるわけでもないかもしれません。70年の教会の歩みを思い巡らすとき、きっといろいろな場面で迷ったり悩んだりしたのだと思いますし、私自身も「あの時の選択は正しかったのか」と悩むことも少なくありません。それでも教会が生き続けて来られたのは間違いなく私たちの選択の正しさではなく、神様の真実のゆえです。個人の人生においても、イエス様は私たちに対して真実でいてくださるので、どんな選択をしてもイエス様が良いことへと導いてくださる信頼と期待を持っていましょう。

“私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」” 2テモテ 2:13

今日は70周年記念礼拝です。共にお祝いできることを感謝します。***さんの誕生日でもあります。祝福を祈ります。

佐々木真輝

いつのまにか

みなさん、おはようございます。
昨日朝いちばんに石材屋さんとの打合せのために教会墓園に行くと、どなたかが綺麗に草刈をしてくださっていました。あの人か、この人かと想像しましたが、誰にも何も言わず、黙ってやってくださるその姿勢がかっこいいですね。石材屋さんの社長さんは「佐々木さんがやってるんですか」と聞いたので「誰かが自発的にやったんだと思う」と応えたら、「素晴らしい、それこそ極楽浄土の…」と言いかけて「キリストの教えにかなったことじゃないですか」と謎の褒めことばを頂きました。言わんとすることは分かります。
誰かに見せるためにではなく、主に示されるままに喜んでやったことは、何も言わずとも見るべき人の目にはちゃんと見えるもので、優しい気持ちや喜びを周りにもたらすものです。

“あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。” マタイ 6:3

ポールさんたちと将司先生たちは今日の午後、北上に到着予定です。道のりが守られるようお祈りください。

佐々木真輝

走馬灯

みなさん、おはようございます。
かなり久しぶりの朝メールとなってしまいました。70周年記念礼拝でスライドショーをすると言い出したものの、なかなか手がつけられずにいたのですが、ようやく写真の整理がほぼ終了しました。最近のものはデジタルカメラで撮影したものだけですが、古いものは写真からスキャナで取り込む作業があるのでなかなかの手間です。教会にあった古いアルバムや自分が持っていたアルバムもひっくり返していくと、まさに「走馬灯」のようでした。70年の恵みをどうまとめたか、どうぞお楽しみに。
膨大な写真や動画を眺めて気付かされることは、教会はいつも集まり、賛美し、食事をともにしながら歩み、バプテスマや結婚や誕生を通して新しく加えられて来たことです。すでに召された方、地元を離れて遠くへ行かれた方、事情があって教会から去った方もおられ、胸がキュンとなりますが、教会は神の家族として神様の御手の中にあるのだと思わされました。

“そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、” 使徒 2:46

今日は婦人会と祈祷会があります。
ここしばらく朝メールを出していませんでしたが、その間、*****さん、****さん、****さん、****さんが誕生日を迎えておられました。遅ればせながら祝福を祈ります。

佐々木真輝

2023-05-21 暮らしの知恵

2023年 5月 21日 礼拝 聖書:ヤコブ3:13-18

 自分の問題を自覚するというのは案外難しいものです。痛いとか、苦しいといった具体的な自覚症状がある時ですら「ちょっと調子悪いだけじゃないか」「この間久しぶりに運動したせいだ」なんて自分で勝手に納得しようとしたりする場合があります。

ましてや、自分の生活スタイルや習慣の問題についてはなおさらです。どれほど親切心から出たものだとしても、慣れたやり方を変えるべきだと外から指摘されることはイライラするし、余計なお節介だと感じるかも知れません。

コロナ禍で出社せずにリモートワークが増えたアメリカで、今明らかになったのは従業員のアルコールや薬物依存が増えてしまっていたということだそうです。そうした問題を抱えてしまった人たちのほとんどが『私が依存症のはずはない。そんな問題を抱えたことはない』と言うそうです。「大丈夫ですか」と聞かれると自動的に「大丈夫です」と言ってしまう私にとっては他人ごとに聞こえませんでした。気付き、認めることは何と難しいことでしょうか。

今日は先週に引き続いてヤコブ書を見ていきます。3章から5章までにはイエス様の山上の説教を彷彿とさせる教えが次々と記されています。一つ一つをじっくり学ぶことがとても有益なのですが、今回は聖書全体を見ていくというシリーズなので、要点に触れるだけになります。それでもいろいろなこと気付かされるはずです。

1.本物と偽物

まず、今日読んでいただいた箇所では、人間の行動を左右する二種類の知恵があることを指摘しています。

一つは15節にあるように「上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なもの」で、その特徴は14節にあるように「苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりする」こと。そしてその結果は16節にあるように「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがある」ということです。

もう一つは「上からの知恵」で、その特徴は17節にあるように「聖いもの…平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません」。当然その結果は18節にあるように「平和をつくる」のです。

回転寿司では自動化が進んでいて、最近ではお皿の枚数を店員が数えることも少なくなって来ているそうです。これは新型コロナ対策や人件費削減を狙った面もあるそうですが、お客のある行動が一つの要因になっているということです。人が皿の枚数を数える時には間違いが起こりやすいです。本当の枚数より少なく数えてしまったとき、殆どのお客さんがそれに気付いてもだまって少ない金額を支払うそうです。中には店員から見えないところに皿を隠してズルをする場合もあるそうです。そして残念ながら、子どもが一緒にいる状況でそのような行動をすることも少なくないということです。もちろんお店にとっては損害ですが、もう一つ私たちが考えなければならないのは、その様子を見た子どもたちが悪い知恵を身につけるということです。自己中心で自分の利益を優先するためにズルをしても良いという知恵を身につけてしまったら、他の場面でも同じようなことをしてしまうでしょう。

しかし、そういう場面で親がさりげなく店員の間違いを伝え、店員が恐縮しながらも笑顔と安心感を示す姿を見たなら、子どもは良い知恵が何をもたらすか自然に学ぶことが出来たかもしれません。

人は口で言うことではなく、心で思っていること、心に根付いたことで行動します。イエス様が良い木を見極めるには実を見れば良いと言いましたが、それはパリサイ人たちの偽善を見分けるために教えたことでした。ヤコブも同じことを教えています。心にあるねたみや利己的が思いがもたらす知恵は混乱や多くの問題を生み出し、まじりけのない愛と寛容さがもたらす本物の知恵は良いものをもたらし、平和を築くのです。

私たちが目指すべきはもちろん、本物の知恵です。両親の良い模範や善良な人たちから学んだ知恵はもちろん素晴らしいですが、神様がこの世界と人間をどのようなものとして造り、愛しておられ、どのようにしたいと願っているかを御言葉から学び、イエス様の模範に倣い、聖霊に励まされ導かれつつ、上からの知恵を身につけるのです。それらを身につけなければ、私たちもまた家族や友人、周りの世界によくないものをまき散らしてしまうことになります。

ここで私たちは前回みた1:5を思い出さなければなりません。こうした知恵はクリスチャンになったからといって自動的に出てくるものではありません。これは新しい生き方ですから、教えられ、身につくまで訓練される必要があります。そしてヤコブを通して神様はそうした新しい生き方の知恵は求めるならちゃんと与えられ、身につけられると約束します。

2.言葉の問題

さて、ヤコブ3章から4章の中頃にかけては、言葉の問題が取り上げられます。特に3:1~12では、クリスチャンの口から神を称える賛美の言葉や歌だけでなく、同じ口からほかの人を馬鹿にしたり、呪うような言葉が出てしまうという、極めて残念な問題を取り上げています。

そして先ほど取り上げた箇所をはさんで4:1~10では争いを引き起こす時に私たちのうちにある、二心を悔い改めることを求めています。神を愛すると言いながら自分のことを第一にしたり、この世のものを愛する心です。そして再び4:11~12で言葉の問題、ここでは特に悪口を言うことについて戒めを与えています。

言葉の問題は本当に悩ましいものです。3:2に「もし、こことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」とありますが、まさにその通りだと思わされます。

イエス様も「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」(マタイ15:11)とか「…口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」(マタイ15:18)と言われました。

私も今は熱くなって激しい議論をするということは滅多になくなり、かなり意見の違う人とでも割と落ち着いて話し合えるのですが、昔は結構激しい議論もしていました。今はそれより場を温めようと軽い冗談を言う時に口をすべらせて「今のはやばかったな」と焦ることが、どちらかというとやりがちなことかも知れません。

あからさまに人を貶めたり、わざと傷つけるようなことを言う人もいますが、人前では立派なことを語り、まさに神を賛美するような人が、家族や身内にはひどい事を言ってしまう、ということもあるでしょう。あるいは、伝え方や言葉の選び方に知恵が足りなくて、正直ではあるかもしれませんが、人を苛立たせたり、傷つける言い方をする人もいます。

「口は災いの元」と言いますが、6節にあるように言葉の問題が人生の車輪を燃やして、人生を台無しにしてしまうことさえあるのです。「ゲヘナの火」とあるように、言葉による罪は、それほどに罪深く、深刻な問題なのです。

さらに4:11~12では他人の悪口を言うことは神への挑戦だということを厳しく指摘しています。悪口を言うことは、自分の価値観や判断で他人を裁くことです。しかし、何が正しく聖いことかを定め、さばきを行う権威のある方は神様ただ一人です。ですから、自分の勝手な基準や思いで人を非難したり、悪口を言うことは神様への挑戦だということを覚えるべきです。たとえ、誰かの行動に大いに問題があると感じ何か言うべきだとしても、よくよく考え、神への畏れと人に対する敬意や自分を省みる謙虚さが必要です。パウロもガラテヤ書で御霊の導きと助けの中で「柔和な心で」あること、また「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と教えていました。

ユダヤ人クリスチャンが迫害やききんといった試練の中で、互いに思いやりを示し合い助け合っていた一方で、えこひいきや愛のない行動があったとすれば、こうした言葉が引き起こすトラブルがあったことは容易に想像されます。私たちの口は何のために与えられたのか、そして神を畏れることを忘れずにいましょう。

3.強欲の問題

ヤコブ書の次のの大きなテーマは「富の問題」です。しかしこれは見方を変えればお金の問題だけではなく、分をわきまえず、他者への思いやりを欠いた強欲の問題と言うことができます。

4:13~17では神様のご計画やみこころを考えずに自分の利益を優先するような考え、行動を戒めています。

また続く5:1~6には特に金持ちたちに対する戒めが記されています。富は魅力的ですし、自分を良く見せたり、将来の不安に備えさせたり、今を楽しく生きるのにかなり役立ちます。しかし、富は果物が腐ったり虫に食われたりするように、一時的であり、むしろ悪臭やらカビやらをまき散らすものになりかねません。

利益を求め、集めるために不正を働く誘惑があり、支払うべき義務を怠ったり、不当に扱ったり、楽しみを通り越して貧しい人をまったく顧みない贅沢や快楽へと誘惑します。

これらの富に関する問題の前に、4:1~10で争いの原因となっている二心が取り上げられていました。神を愛すると言いながら実はこの世のものを愛している人が、自分が願っても手には入らないと争い、戦い、人殺しさえする罪が人間のうちにあり、悪い動機で求める罪がある。そうしたことをわきまえて、神の前にへりくだり、悔い改めるよう求めていた箇所です。

富の問題に共通する強欲さが基本にあるように思われます。

強欲なんていうと、いかにも欲まみれの嫌な顔つきの人を想像するかもしれません。あるいは隣国の豊富な資源を狙って軍事力で手に入れようとするような国のことを考えるかも知れません。

しかし自分の分を超えて欲しがるというのは誰でも経験があることかもしれません。強欲という言い方は大げさかもしれませんが、それでも心のうちにある欲が争いを引き起こし、自分の利益を守るためにちょっとズルをしたり、誰かに分け与えることをやめてしまったりすることがあるのではないでしょうか。

私たちが身につけるべき知恵の一つは、そうした欲や誘惑が自分のうちにもあるということをはっきり自覚することです。その上でみことばに聞いてより良く生きる知恵を身につけることが大事す。

5:7~11が示しているのは、私たちの利益を永遠の尺度で見直すようにということです。豊かな永遠の収穫のために、今日という日々に忍耐を働かせ、心を強くし、文句ばかり言ってないで信仰によって生きた人々の模範を思い出しなさいということです。

その時々の利益や楽しさばかりで物事を判断していたら、収穫のために忍耐しながら労苦する農夫のような生き方は当然できないでしょうし、そうなれば結果として豊かな収穫も得られないのです。

私たちクリスチャンが忘れていけないのは、私たちには神様の無尽蔵の祝福が約束されており、そのうちのほんの味見程度のものはこの地上で味わえるけれど、すべてを受け継ぐのは未来のことだということ。そして、その日まで私たちは忍耐し、心を強くして日々を暮らしていかなければならないということです。そうしないと、私たちのうちからあふれて来る欲や誘惑が簡単に私たちを捕らえ、すぐに悪いものを周りの人たちにまき散らす者になってしまうからです。そして忍耐は必要ですが、神様は私たちを単に苦しめる方ではなく、慈愛に富み憐れみに満ちた方ですから、労苦への報いは生きている間にも、私たちを慰めるほどに与えてもくださいます。

適用:暮らしの知恵

ヤコブ書の終わりはあまり手紙っぽさがありません。12節では自分の言葉に誠実であること、13節からは信仰によって祈ること、最後19~20節は真理から迷い出た人を連れ戻す努力について語っています。終わりの挨拶のようなものはありません。もともとは挨拶文があったのかも知れませんが、聖書には含まれず、あくまで実際的な知恵を伝えることに集中しています。

以前は「おばあちゃんの知恵袋」とか「○○家の食卓」といった暮らしに役立つ知恵や情報を取り扱う本や雑誌、テレビ番組がありましたが、最近はあまり見かけないような気がします。おそらく何でもネットで検索できるようになったためだと思います。いつの時代でもよりよく生きるための知恵は必要です。

衣食住のための知恵はもちろん私たちの暮らしに役立ちます。しかし、聖書は衣食住についての知恵については殆ど語っていないように思います。野の花や空の鳥を引き合いにして、住む場所や着る物について心配するな、という有名な山上の説教はあります。しかし、内容として圧倒的に多いのは、クリスチャンが神を愛し、人を愛する者としての生き方についての知恵です。

一つ一つの教えを十分時間をかけて取り上げることはまた別の機会に譲りたいと思いますが、このような知恵の書をパラパラとめくり、心に止まった箇所にしっかり向き合い、開かれた心で聞くなら、気付かずにいた自分の中にある問題や、目をそらしてきた罪に気付かされるかもしれません。

キリスト教の歴史を見るとき、迫害の中でクリスチャンの信仰が研ぎ澄まされ、強くされるという面がよく見られるのですが、ヤコブ書を見ると、そういう状況でも人間には弱さがあり、罪があるということ。その現実に気付いて、聖書の教えにしっかりと立ち、神様の恵みとイエス様の愛、聖霊の助けに頼ってより良く生きていこうとしなかったら、やっぱりクリスチャンの歩みは間違ってしまうということです。試練があるから必ず強くなる、迫害があるから必ずきよめられるということではなく、そのような状況でみことばに根ざした知恵をもって生きることで私たちは清く、強い者とされていくのです。

ですから、5:12以下にあったように、自分は大丈夫だなんて大見得を切ったりしないで、遜った心で自分の言葉に誠実であるよう務め、苦しんでいる人や弱っている人、罪に陥った人のために祈り、苦しみのために信仰から迷い出た人がいるなら励まし、連れ戻す努力をしなさいと教えられているのではないでしょうか。

神様がヤコブを通して私たちに教えている暮らしの知恵というのは、単に道徳的に立派な生活をしなさいということではなく、試練や誘惑の多い、そしてしばしばそれらに負けてしまう私たちの信仰の歩みの現実の中で、神と人を愛する者となり、神の家族とされた私たちが愛の交わりの中で共に歩んでいくために何に気をつけ、何に目を留め、何を大事にすべきかという知恵なのではないでしょうか。それは私たちがこの世の旅路で神の子どもとされたことの幸いを味わうためであり、自己中心、混乱、嘘、暴力に溢れ奪うことの多いこの世界で、平和で、柔和で、真実で、憐れみと慰め、自ら与える生き方がキリストにあるなら出来るということを証しし、世の光となっていくためです。

聖書が勧めるように、これらのクリスチャンとしての暮らしの知恵を心から求めていきましょう。今まで気付いていなかった問題が私たち自身の中にあるなら、神様の前にへりくだって整えていただくことを願い求めていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

ヤコブ書を通して私たちの歩みについて様々な知恵を与え、大切なことに気付かせてくださりありがとうございます。

それぞれに気付いたこと、自分の問題は違っていますが、そのどれもが神を愛し、人を愛する者としての生き方を教え、整えるものです。この曲がった世界で、ただ私たちが正しく生きるためではなく、より良い生き方、恵みと真実、平和と慰めに満ちた生き方が出来る事を私たちの暮らしを通して証しできるためであることを知りました。

どうか、私たちを励まし、導き、整えてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

恐れを締め出すもの

みなさん、おはようございます。
同盟の総会やミーティングが終わり、少々疲れてはいますが学びの多い集まりで、楽しくもあり、元気に帰って来ました。ところで今日から広島でG7が開催されるということです。広島は一度は行きたいと思っているところですがまだ実現できていません。あまり期待はしていませんが世界の核兵器の問題が良い方向に前進して欲しいと思います。実際に使用されてしまった場合の被害の大きさ、残酷さを考えると、核兵器を取っておきたいという考え方に腹が立つし、その手を離せない恐れの大きさを可哀想にも思いますが、結果の重大さはあまりにも大きすぎます。
戦争が日常的な出来事であり続けた旧約時代であっても、神様は馬や戦車に頼ることを戒めていました。力に頼るのは恐れがあるからではないかと思います。政治や軍事だけの話しではなく、私たちの個人的な人間関係でも同じです。その恐れを締め出すことができるただ一つのものは力ではなく、愛だということをいつも信じていたいです。

“愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。” 1ヨハネ 4:18

佐々木真輝

2023-05-14 地球の歩き方

2023年 5月 14日 礼拝 聖書:ヤコブ1:1-8

 今でもあると思いますが、「地球の歩き方」という個人の海外旅行者向けの観光案内本がありました。単なる観光スポットの紹介ではなく、個人が旅行するとき、現地での移動手段や滞在方法などを紹介する本で、実際に旅行した人の情報をそのまま掲載するコーナーもあって便利がられたそうです。見栄えのいいポイントだけを紹介するのではなく、実際にそこに行くための手段は何があるのかとか、経験した人からの情報は確かに有益でしょう。

残念ながら私は海外旅行とはほとんど縁がありませんでしたので使うことはありませんが、この地上をクリスチャンとして歩むうえで、どう歩いたらいいのか、ということは大事な問題です。

私たちは人生の中で起こってくる多くのことをまるでガイドブックから情報を得るように、事前に見聞きしているものです。ある年代になると疲れ易くなるとか、老眼が始まるというのは聞いていました。信仰生活には楽しいことだけでなく悩みもあれば試練もあるとは聞かされています。しかし自分のリアルな経験としては、それらの経験はどれも初めて歩く道のように思われるものです。ですから単なる観光情報ではなく、歩き方の知恵が必要です。

ヤコブ書はクリスチャンの生き方についての教えがパッチワークのように張り合わされて記されています。今日と来週の二回に分けてこの知恵について学んでいきましょう。

1.試練という贈り物

第一に、ヤコブはクリスチャンが経験する試練を「贈り物」として捉えています。

本題に入る前に、著者のヤコブやこの手紙が書かれた背景についてお話しておきましょう。

ヤコブは「主の兄弟ヤコブ」として知られる人で、イエス様とは兄弟関係にありました。お父さんのヨセフが早くに亡くなって再婚した後の父親違いの兄弟だったという説もあります。福音書の中では、ヤコブをはじめとするイエス様の兄弟たちがイエス様に対してかなり懐疑的で、迷惑がっているようにすら思われる様子が記されています。しかし、イエス様が十字架の死からよみがえったあと、まっさきにお会いになった一人がこの弟のヤコブでした。

後にヤコブはエルサレム教会の優れた指導者となります。しかし、イエス様が天に挙げられた後、エルサレムで始まった最初の教会は大変な試練を何度も経験します。そのあたりのことは使徒の働きの中で描かれています。イエス様のことで根に持っている祭司長たちのグループはしつこく教会を迫害し、そのため一部のユダヤ人クリスチャンはエルサレムから追放され、ローマ帝国内に散らされていきました。その後も飢饉が襲いかかり相当な貧困の中に置かれることもありました。

このような背景があるので、1:1~2に「離散している十二部族」とか「様々な試練にあうときは」といった言葉が出てきます。もちろん、手紙はユダヤ人クリスチャンを念頭に書いてはいても、ユダヤ人に限定したものではなく、すべてのクリスチャンに向けて書かれたものです。そしてこの手紙を書くにあたってヤコブはイエス様の山上の説教や箴言の知恵を数多く引用しています。福音についての新しい教えや考え方を示すためではなく、試練の多いこの地上での歩みのための具体的な原則と知恵を与えるためです。

それで最初に試練を贈り物と捉えようと語り出すのです。これは私たちが実際に感じることとは正反対のものです。

安全運転しているのに、他の車にぶつけられたりすると「もらい事故」なんて言い方をしますが、そこには有り難さとか贈り物という意味はありません。

しかしヤコブは「人生の試練こそが忍耐を生み、忍耐が欠けのない成熟した者にしてくれる。だから、試練を贈り物として喜んで受け取りなさい」と励ますのです。ボンヘッファーの『善き力に我囲まれ』の3番の歌詞、「たとい主から差し出される杯は苦くとも 恐れず感謝を込めて 愛する手から受けよう」という歌詞が思い出されました。試練は苦いもので、その苦みは変わらないのだけれど、これを愛なる主の手から差し出されたものとして受け取る時、その苦難は不思議な力を発揮し始め、私たちを欠けのない者とするのです。

4節に出て来る「欠けのない」という言葉はヤコブ書のキーワードの一つです。意味合いとしては、信仰と行動が一貫した誠実な生き方をする人を差しています。もともと私たちは不完全で、いろいろな思いや考え方に影響され揺らぎやすく、変なことにこだわり過ぎて的外れになりがちなのです。しかし、試練を通してそういったところが訓練され、整えられて、誠実でクリスチャンとして一貫性のある生き方ができるようになるというのです。

2.知恵の身に付け方

試練や苦難を、誠実で一貫した生き方ができる成熟したクリスチャンとして整えるものとして受け止めるには、知恵が必要です。

知恵というのは、困った状況になったときや初めて直面する状況で問題を解決する能力です。目的を達成するために問題を今までとは違った視点で見直し、手持ちの知識と技術、道具を工夫しますす。コップがないからといって水を飲むのを諦めるのは知恵ではありません。手ですくったり、直接口をつけたり、大きな葉っぱでコップ代わりの器を作ったりするのは初歩的な知恵ですが、十分役立ちます。誰かが通りかかるのを待ったり、貸してくれそうな人に頼むのも立派な知恵です。諦めたり、なんだ「コップないじゃん」と苛立ったりするだけでは何も解決しません。

そうした知恵の必要性は、水を飲むような日常的な小さなことだけでなく、初代教会が直面していた迫害や飢饉による貧困といった深刻な状況でも変わりません。起こった出来事に不満を訴え、いらだち、不幸だと嘆くことに信仰も知恵も必要ありません。しかし、ヤコブが勧めているように不幸と思える出来事や環境の中に神の贈り物を見つけ、受け止めていくには信仰と知恵が必要です。

知恵による生き方は、起こった出来事や置かれた状況に単純に反応するだけの生き方から、神が誠実で私を愛しておられるという新しいものの見方と確信に立って物事を見直すことから始まります。

そのような見方をすることで、9~11節にあるように、貧しい境遇に置かれた人は神のゆえに誇りをもって生きることができ、富む人はへりくだることを学び、一時与えられている善きものをどのように使うべきか考えさせられることでしょう。

試練を耐える者には素晴らしい名誉が約束されていますが、何より大事なのは神様が私たちを愛しておられるし、私たちが試練にあうのも神の愛の御手の中でのことです。そのような見方ができれば、試練と誘惑の区別もつけられます。試練は私たちを整え訓練するために神の許しの中で外からやって来るものですが、誘惑は外からではなく自分の内側から起こるものです。17節にあるように、光を造られた神様は私たちを真理によって整えるためにあらゆる善い贈り物をくださる方です。

ですから、私たちがこの地上を歩んでいくために必要な知恵は、心からあふれてくるものや、自動的に反応してしまう感情に基づいて判断したり、行動したりするのではなく、御言葉によって、21節にあるように心に植え付けられたみことばを素直に受け入れることで得られるのです。

みことばを受け入れるというのは、聴いて終わりではなく、実行する者になるということです。一回やってうまく行かなかったからやめてしまったりしないで、25節にあるように「一心に見つめて離れない人」になることです。これはみことばの実践において成功し続けるということでなく、失敗したり間違ったりしてもあきらめないということです。世の中がどうであれ、たとえ困難があっても、そして失敗したり迷ったりしても、それでも神を愛し、人を愛するという教えに集約される神のことばによって生きていくのだという覚悟を決め、本気で求めるなら、神様は私たちのうちに知恵を与え、揺るがない心へと鍛え上げ、欠けのないもの、信仰と生活が一致した誠実な者へと造り変えてくださいます。

3.ほんとうの愛

さて、2章に入ると終わりの5章までにいくつかの教えが次々と記されていきます。これらはクリスチャン生活というこの地上の歩き方の具体的な原則と知恵を教えるものです。よく出来た旅行ガイドに、旅先で出くわしがちなトラブルの対処法が書かれているように、クリスチャン生活の中で起こりがちないくつかの問題について原則を示し、知恵を与えようとしているのです。

2章では、ほんとうの愛とはどういうものか、そして本当の信仰には本当の愛の行いが伴うものだということが教えられています。

ヤコブはまず、ほんとうの愛について語るために立派な身なりをした金持ちとみすぼらしい格好をした人が教会に来たときにあなたがはどうするかと問いかけます。

人間というのは実に浅ましく、愚かです。ヤコブが手紙を書いたとき、迫害や苦難の中でエルサレムから散らされた人たちを念頭に置いていましたが、人はそういう状況にあっても、外見で人を判断し、差別したり、えこひいきしたりしてしまう、そんな愚かさがあります。今も人を外見で判断してはいけないと盛んに言われますが、残念ながらクリスチャンになってもその習慣から抜けきれない部分があることを認めざるを得ません。

しかしヤコブは5節で「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい」と呼びかけます。イエス様が「まことにあなたがたに告げます」とか「耳のある者は聞きなさい」と語りかけたのを彷彿とさせる言い方ですが、続く言葉もそうです。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われたように、神様は貧しい人、弱い人、悲しむ人、虐げられている人を選んで信仰に富む者とされました。

もし聖書に従って、クリスチャン生活の基本は「隣人を愛することだ」と公言し、ある程度それを実践していたとしても、ふとした場面で出て来る差別やえこひいきがすべてを台無しにしてしまいます。ヤコブの教えは山上の説教のように鋭く、厳しいですが、何もそういう不完全な愛しか持ち合わせてない私たちが天国には相応しくない、さばきに合うだろうと予告しているのではありません。愛だなんだと言っても、聖く義なる神様から退けられても仕方が無い程度の愛しか持ち合わせてないことに気付いて、本当の愛を実行する人になることを求めるようにと促しているのです。

そして14節以下では、本当の信仰というのは、そういう小さくても真実な愛を実践するものだと教えています。

兄弟姉妹の誰かが困っている時に「安心しなさい、主がともにいてくださるから」と言って何もしないなら、そんな言葉は何の役にも立たないとヤコブは鋭く指摘します。主がともにいれば大丈夫だという信仰は立派ですが、行いが伴わないなら信仰は死んだものなのです。

これも私たちには耳の痛い言葉かも知れません。イエス様が山上の説教で語った時もぎょっとさせたり、心をざわつかせるような言い方をして、人間の隠された闇を顕わにし、問題に気付かせ、考えを改めるよう促しました。ヤコブも同じようにしています。つまり、神の愛や恵みを信じるなら、自分自身がその神の愛や恵みの手足となり、器となって兄弟姉妹や隣人に関わり、仕えるべきだと言っているのです。

適用:信仰を完成させる

さて、今日はヤコブ書1~2章までを見て来ました。残りの3~5章は次週改めて読んでいくことにします。

困難や悩み、悲しみによって試されることの多い、この地上での生き方について見て来たわけです。神様はヤコブの手紙を通して、そうした試練は私たちの信仰を完成させる贈り物だという新しい見方を示します。ただし、そのためには知恵が必要で、口先で神の教えを語ったり、信仰を表明しているだけでは無意味なことを突き付けます。その最たるものが兄弟姉妹や隣人への愛なのです。私たちが置かれたその生活の場、環境、人生の中で神の誠実さと愛を信頼して、私たち自身が神の愛と恵みの器となる覚悟を決めましょう。その場面場面でどうすることが愛を示すことになるのか考え、実行する、そんな積み重ねが私たちの信仰と生活を一貫したものとする訓練となり、欠けのないものにしていくのです。

信仰を完成させるとか、信仰の成長という言葉を聞くと、強い信仰心や聖書の教えに深く通じることを連想する人もいます。それは大事なことですが、ヤコブ書の視点では、信仰の完成とは、信じているように生きていることなのです。

イエス様は、ご自分のもとに来ようとしている幼子たちを喜んで迎え入れ、子どもが出しゃばるなと叱る弟子たちを逆に叱って、この子どもたちのように素直であるようにと教えました。

別の場面では有り余る中から大金を投げ入れている金持ちの隣りで僅かなお金を、しかし精一杯のものを捧げいているやもめの信仰こそが本物だと称賛しました。

聖書の知識や規則を守ることでは一番だと自慢してはばからないパリサイ人が横柄な態度で祈っている隣りで、ローマの手先になって取税人家業をしていた人が罪深い自分を赦してくださいと祈ったとき、イエス様は彼の祈りが聞かれたのだと言われました。

タラントのたとえで褒められたしもべたちも、儲けた金額の大きさで褒められたのではなく、任されたものに忠実だったかどうかで褒められたのでした。こうしてみると、信仰の完成とか、欠けのない者というのは、やり遂げたことの大きさではなく、その時その人が持っている信仰に応じた生き方をしているかどうかで計られるということではないでしょうか。

もちろん、神様の願いは信仰と生活のどちらの面でもより豊かに、より確かなものへと成長していくことを願っておられますが、まずは、今あるところ、今持っているものを神への愛と隣人への愛のために賢く、正しく用いることです。

私は北上に戻って来て、驚くことにもう23年になります。70周年を迎えている今年、初代の宣教師からはじまり、歴代の宣教師や牧師たちが成し遂げて来たことと比べ、年数ばかりで何も出来ていないと感じます。焦る気持ちがすぐに沸き起こってきます。欠けのない者なんてほど遠い話しです。しかし、こうして毎週みことばを説き明かすために聖書に取り組みながら、本当にこのように信じているか、そのように生きているだろうかと問われ、日々の暮らし方を思い起こし、立ちあがってくる出来事に向き合い続けきて、いくらかは知恵や忍耐する力も与えられたように思います。しかし、そう出来たと思うと、また不完全な者であることを痛いほど突き付けられるような失敗をしたりして落ち込んでみたりもします。

私たちはこの地上にある間は、どこまでいっても旅人であり、歩き方を学び続ける者です。しかしこの一歩一歩が、信仰の完成に至り、欠けのない者とされ、愛する者に約束してくださったいのちの冠に値する者に造りかえられていく一歩一歩なのです。

祈り

「天の父なる神様

ヤコブ書を通して教えてくださったように、この人生、地上での歩みの中で起こる試練や直面する様々な問題を、神様からの贈り物として受け取れるような信仰と知恵は私たちにあるでしょうか。

心をふらつかせず、まっすぐに御言葉を信じ、信仰と生き方が一致するようにと願い、覚悟を決めて生きているでしょうか。

そのような問いかけをいただいた私たちが、あなたの愛と真実に信頼しきって、知恵を身につけ、本当の愛の器として歩めますようにどうぞ助け導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

ごちそう

みなさん、おはようございます。
夕べ、家に帰ると(8時過ぎていましたが)まだ家内が帰っていませんでした。しばらくして帰って来ましたが、職場でいろいろあったようで疲れて帰ってきました。インスタントラーメンが食べたいということで(ああ、こういう時にジャンクなものが食べたい気持ちは良く分かります)、急きょ冷蔵庫にあった残り物でチャーハンとインスタントラーメンを作って、炭水化物てんこ盛りのゼイタクなご飯を作りました。健康には良くなさそうですが糖質は気分を上げてくれます。
食べることは生きることの基本ですが、食事には栄養素を摂取するだけでなく、喜びや楽しみでもあります。一人で食べる時はちょっと味気ないですし、面倒だったり、気分や体調によっては食欲がなかったりしますが、家族や親しい人と一緒に食べることは神様が与えてくださったすばらしい祝福ですから、機会あるごとに感謝しましょう。毎日そうできるなら、それはもう特権です。

“そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。” 使徒 2:46-47

明日の礼拝後の食事は準備していませんので、必要に応じて各自でご準備ください。5月の食事は28日の記念礼拝のときだけになります。

佐々木真輝

思わぬ穴

みなさん、おはようございます。
昨日、薄手のジャンパーのポケットに小銭をそのまま突っ込んでいたら無くなってしまいました。よく調べたらなぜか背中あたりの表地と裏地の間に入り込んでしまっています。どうしてこんなところに?と思ってポケットを裏返してみたら、いちばん奥の縫い目がほつれていて、ちょうどコイン一枚分くらいの穴が相手しまっていました。思わぬ落とし穴でした。
私たちの暮らし、人生にも時として思わぬ落とし穴があります。落とし穴は見えていれば滅多に落ちることはありませんが、油断、よそ見、不注意などがあれば落ちてしまいます。落とし穴があることはしかたがないとしても、注意しておっこちないようにしたいですね。

“ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。” エペソ 5:15-16

佐々木真輝

続けること

みなさん、おはようございます。
夕べ、家に帰ってからいつものように夕飯の支度を始めましたが、凝った料理は面倒だったのでストックしてある、あり合わせのもので簡単に済ませました。料理をすること自体はずっと続けていますが、最初は、はっきり覚えていませんが小学生の頃だったと思います。難しい料理は滅多に挑戦しませんが、基本的なことは繰り返して来たのである程度応用も利きます。最初の頃は失敗も多かったですし、手際も悪かったでしょうが、長く続けていればそれなりに出来るようになるものだなあと思います。
みことばによって新しく生きることも、失敗したり下手であっても続けることが大事です。成功体験はもちろんですが、失敗したことも必ず私たちの血となり肉となります。長く続けていれば、自然にできるようになったり、何が問題なのかを判断したり、すべきことがすぐに分かるようになります。続けることです。

“あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、” ピリピ 1:10

佐々木真輝