ソメイヨシノの危うさ

みなさん、おはようございます。
ご存じの方も多いと思いますが、桜の代表的な品種のソメイヨシノは接ぎ木で増やし続けたもので、ほとんどの木が同じ遺伝子情報を持ついわばクローンのようなものです。同じ遺伝子情報を持つということは、何かの病気が流行ったりすれば一気に拡がってしまう可能性があるということで、実際そうした被害もあると聞きます。そのため最近はよく似た別の品種に置き換えようという動きもあるようです。
多様性があることは環境の健全性にとってとても重要です。人間の社会、共同体も同じで、多様な感じ方、考え方、ものの見方があることで不完全な私たちが他の人の見方を取り入れたり、話し合ったり、学び合ったりすることで真理に近づいたり、知恵を得たり、間違いに気付いたりします。家族も教会も社会も、いろんな人がいることで難しい場面もありますが、良いことのほうがずっと多いのです。

“一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。” ローマ 12:4-5

今日は****君の誕生日です。祝福を祈ります。
いつものように婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

世界はつながってます

みなさん、おはようございます。
中国から黄砂が大量に飛んでくるので気をつけて、という報道がありました。気をつけてと言われても、という気がしないでもないですが、昨日からすでに車には黄砂が降り注いだ跡がついていました。こんなかたちでも世界は国境など関係なくつながっているんだなあと実感します。あの震災の時の津波も日本だけでなく遠く太平洋を越えて南北米国大陸の沿岸に到達したと聞きます。
世界がつながっているために及ぶ影響は自然災害や面倒ごとだけではありません。神様はアブラハムの子孫である私たちを通して、神様の祝福を世界にもたらそうとしています。その影響力のほうが強いのだと信じましょう。

“あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」” 創世記 22:18

佐々木真輝

復活

みなさん、おはようございます。
昨日はイースターでした。朝、雪が降ったということにはちょっと驚きました(4月に雪が降ること自体はたまにありますが、桜が満開になってから雪というのは記憶にありません)。それはともかく、主イエス様の復活を祝い、コロナ禍以来久しくおいでになれずにいたご家族も礼拝に出席され(子どもたちの成長ぶりに驚きました)、礼拝後の食事も交わりも復活しました(こちらは当面月一度)。
午後、夕拝が始まるまでの少しの空き時間に、70年前に私たちの教会が生み出される働きが始まった場所に行き、対岸の桜並木を眺めに行きました。この営みが続いてきたのは人の力ではなく、私たちの罪のために死なれたイエス様を死の中からよみがえらせた神の力と、私たちへの愛と真実のゆえであることにあらためて心打たれます。

“この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、…また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。” エペソ 1:20-23

佐々木真輝

2023-04-09 「もしかしたら」から動き出す物語

2023年 4月 9日 礼拝 聖書:ルカ24:112

 こうして主イエス様の復活を喜び祝うイースター礼拝をともに捧げられることをあらためて感謝したいと思います。

昨年度、私たちが掲げた「主の回復の年」という主題も、今年度掲げている「いつまでもの残るもの」つまり信仰と希望と愛とは、このキリストの復活に根ざすものです。

主が罪をあがない、死を打ち破ったからこそ、約束された回復は現実のものとなりました。主が復活したことは私たちが信じる福音の重要な部分であるとともに、私たちがキリストのいのちによって愛のうちに新しく生きる希望の土台でもあります。

しかしイエス様がよみがえったという知らせを最初に聞いた人々がすぐにそのように理解し、納得できたわけではありませんでした。三日前に死んで、ちゃんと埋葬したはずの方が墓にいない、よみがえったと誰かが言う、そしてよみがえったイエス様に会ったという人が現れ、やがて親しかった弟子たち全員がよみがえったイエス様にお会いします。それでも戸惑う弟子たちの姿は印象的です。

私たちはしばしば、何度も聞いていたのに忘れていた聖書の真理、大事な約束、教えを思い出し、それによって今経験している出来事の意味や、心の内にある混乱やもやもやが晴れていく、という経験をします。復活の出来事に混乱した弟子たちはどうだったのでしょうか。

1.途方に暮れるとき

復活の日の朝にみられる最初の場面は空っぽになった墓を前に途方に暮れる女の弟子たちの姿です。10節にはマグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして他にも女の弟子たちがいたことが記されています。

イエス様が十字架につけられたのは金曜日の朝9時頃のことです。通常、十字架による処刑では死刑囚が直ぐに死ぬということはなく、数日かかったそうです。現代のように死刑執行にあたっても非人道的なことをしないよう配慮するなんてことはなく、見せしめにし、兎に角苦痛を与え苦しみながら死んでいくのを待つという残酷なものでした。

しかしイエス様の死はあっという間に訪れました。それでもおよそ6時間、十字架の上で苦しまれました。普通ではあり得ない速さにおどろいたローマの兵士が本当に死んだのかを確認するためにわき腹を槍で刺したほどです。

午後3時頃、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言って息を引き取った時、あと数時間で安息日が始まることを気にしたユダヤ人たちに配慮して、イエス様の両隣で十字架につけられていた二人の犯罪人はまだ息がありましたが、足の骨を折られ絶命させられました。

そうやって、死なれたイエス様はユダヤ議会の議員であったアリマタヤのヨセフと、律法の教師であったニコデモの手によって十字架から下ろされ、急いで埋葬されました。金曜日の日没からは安息日が始まり、一切の労働が禁じられていましたので、埋葬も速やかにする必要がありました。

この一切を女の弟子たちは見ていたのです。汗と血にまみれた体を十分に綺麗にしてあげることも、普通なら塗ってあげるはずの香油を遺体に塗ってあげる時間もありませんでした。

安息日は土曜の日没まで続きます。安息日が明けてももう夜ですから結局は日曜の朝まで何もできません。香油を準備してただ待つしかありません。

日曜の朝早く、まだ日が昇る前に女の弟子たちは準備しておいた香料を持ってイエス様が埋葬されている墓に急いで向かいました。ところが、墓をふさいでいるはずの大きな石がわきに転がしてあって、中に安置されているはずのイエス様の遺体がありません。彼女たちは途方に暮れてしまいました。

墓をふさいで封印までされていた石をどうやってよけたらいいかと困りながらも、何とかなるさとやって来た彼女たちにしてみれば、予想外の状況です。まず、何が起こっているのか状況が飲み込めないでしょう。

私たちはしばしば、全くの予想外の出来事や何が起こっているか飲み込めない状況の中に放り込まれ、戸惑い、途方に暮れてしまうことがあります。思いもしなかったような病気が分かったり、事故に巻き込まれたり、家族に予想外の変化が訪れたり、仕事を失ったり、予想も期待もしていなかった状況に置かれると私たちはまず「どうしよう」と焦ったり、不安に陥ったり、何かしら理由を捜したりします。実際、他の福音書を見るとマリアたちは誰かが遺体を移動したか盗んだんじゃないかと考えたことが記されています。

2.主がお話になったこと

復活の物語の、次の展開は、御使いが現れ途方に暮れるマリアたちに主イエスがよみがえられたと告げる場面です。

何度も読んでいる箇所ですが、今回特に心を動かされたのは「主がお話しになったことを思い出しなさい」という言葉です。

マリアたちの目には、眩しく輝くような衣を着た二人の人として見えましたが、後にあれは御使いだったと分かったようです。その御使いたちは「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか」と問いかけました。まるで、イエス様が復活したことは当たり前、そのことに気付いているべきじゃないかというような聞き方です。というのも、イエス様の復活についてはガリラヤにいたころにすでに弟子たちに話されていたことだったからです。それで御使いはマリアたちに「主がお話しになったことを思い出しなさい」と言ったわけです。

主イエス様が以前お話しくださったことには「罪人たちの手に渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」という受難と十字架の死、復活がセットで語られていました。実際、ルカの福音書ではまだガリラヤにおられた時期の9:22、9:43、18:33で、はっきりと苦しみをうけ、殺され、三日目によみがえると語っていたことが記されています。

こんな大事なことを彼女たちも男の弟子たちも聞き逃したり、忘れていたりするのでしょうか。9:45には弟子たちがイエス様の言っていることが分からなかったとあります。「彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた」ということです。

イエス様が話している未来は、弟子たちが望んでいる未来とあまりにも隔たりがありました。

恐らく私たちにもそうした経験があるのだと思います。聖書で教えられていること、メッセージで聞いたことなど、聞いてはいるけれど、自分が願っていることや思っていることとは違うと無意識のうちに心を閉じてしまうのです。

何か良いことが起こる事を期待しているのに、忍耐しなさいとか、あなたの持っているものを捧げなさいと語りかけられたり、怒りや恨みを晴らしたいと思っているのに、赦しなさいとか、愛しなさいと言われたりすると、それが何を意味しているのか分かりたくないという心理が働いてしまうのかもしれません。

弟子たちにとって待ち望んだ王である救い主が囚われ、苦しめられて死ぬなんて聞きたかった話しとは違います。そうなると、その先にある三日目によみがえるという話しも耳には入っていても心に届かないのです。

しかし、聞いてはいました。そして、以前は心を閉ざして理解しようとしていなかったことばを思い出しなさいと御使いは告げます。それこそが、今戸惑っている状況、混乱している状況を理解し、その意味合いをつかむ道です。

私たちが自分の人生に降って湧いたような状況に戸惑うとき、その意味について、その時に神様が何を求めているかについて、実はすでに聞いている聖書のことばが答えを与えてくれるということがしばしばあります。あ、あのとき聞いた聖書の言葉、あのとき読んで心にひっかかっていた聖書のあのことばは、このことについて教えていたんだと気付くことがあるのです。

3.立ちあがったペテロ

復活の日の、三つ目の展開は、マリアたちの話しを聞いたペテロが確かめに立ちあがって走り出した場面です。

御使いの話しを聞いたマリアたちは、すぐさま弟子たちのもとに帰ります。香油を持って墓に行ったら、閉ざされ封印されてあるはずの大きな墓の石は脇によけられており、墓の中に安置したはずのイエス様の遺体がなく、どういうことかと途方に暮れていると、光輝く衣を着た人たちが「イエス様はよみがえった。ここにはいない。ガリラヤにおられたことにお話しておられたことを思い出しなさい」と言われたことを弟子たちに代わる代わる話し出します。彼女たちも困惑と御使いの姿への恐怖、そして本当によみがえられたのかもしれないという期待と共に報告しました。

しかし11節にあるように使徒たちには戯言のように思え、信じようとしませんでした。

ルカは福音書の中で、弟子という言葉と使徒という言葉を使い分けています。彼が福音書を書き始めたのはパウロとともに宣教旅行をしている時だったと思われます。当時はすでにペテロを初めとする使徒たちが初代教会の指導者として認められていましたから、そんな使徒たちも、最初はこんなふうに疑い、戸惑う人たちだったというのは、多くの人にとって慰め、励ましとなっていたに違いありません。ともかく、使徒たちはどうしても信じられなかったのです。そして、この信じようとしなかった使徒たちが、今はたとえ迫害によっていのちを奪われることがあってもイエス様の復活の証人として宣べ伝えていることに、キリストの福音の信頼性が示されていたのです。

絶大な権力を誇っていた政治家や経営者、リーダーたちの周りには多くの人たちが群がっていいます。しかし彼らがやがて力を失い、あるいは化けの皮が剥がれた途端にさーっと波が引くように人々が離れていきます。けれども十字架の場面で逃げ出した弟子たちは、命がけで主の復活を証言し続けたのです。

その最初の変化は12節にあるように、ペテロでした。彼も戯言のように感じ、信じようとしなかった使徒の一人です。しかし、立ちあがって、確かめるために墓に向かったのは、「もしかしたら」という思いがあったからではないでしょうか。

この「もしかしたら」という小さな心の変化を押し殺さず、確かめにいこうと行動したことが大事です。結果は、まだはっきり見えていません。ペテロがそこで得たものは、マリアたちが言った通りに墓は空っぽだったという事実と、この出来事への驚きだけです。しかしこのことがイエス様がかつてお話くださったことを思い出し、その言葉と目の前の、空の墓という事実を結びつけ、イエス様の復活を信じるようになる備えになったことは間違いありません。

ついこの間、野球の世界大会で大谷選手の活躍に注目が集まり、今でもその余波が続いています。でも彼がピッチャーとバッターという二刀流でメジャーリーグに挑戦するというとき、多くの関係者は懐疑的でした。ピッチャーかバッターのどちらかなら取りたいという球団はあったようです。今のチームが二刀流でプレーすることを受け入れたのは、調査をして勝算はあったとしてもある種の賭けだったはずです。しかしその「もしかしたら」というところに賭けて動き始めた先に、大きなドラマが待っていたわけです。

適用:思い出しなさい

イエス様がよみがえられたことは4つの福音書のいずれにも記されていますが、共通していることは、イエス様の復活の場面はどこにも記されていないということ、そしてイエス様が復活したことは関節的に知らされたということです。

ペテロや使徒たちは、後の時代のすべてのクリスチャンと同じように、まずイエス様がよみがえられたという知らせを聞き、イエス様に会ったという人々の証言をき聞き、これらが聖書を通して神様がすでに語っておられたことだと信じることを求められたのです。

もちろん使徒たちはイエス様の復活の証人という役割がありますから、最初の日曜日の夕方、部屋に隠れていたところにイエス様がおいでになり、そのお姿にふれ、一緒に食事をしたりもするのです。イエス様は天に上げられるまでの40日の間に使徒たちと共に過ごし、神の国について教えてくださいました。

非常に大事なポイントは、御使いがマリアたちに言った言葉に表れています。これらのことについてすでに語られていたことを思い出すようにということです。使徒パウロや他の使徒たちも、福音の最も大事な内容であるイエス様の十字架と復活は、イエス様があらかじめ告げていたことだというだけでなく、旧約聖書を通して神様が語っておられたことだということを強調しています。

使徒たちがいのちをかけてもイエス様を救い主として信じ、宣べ伝え、その後のクリスチャンたちも後に続いたのは、イエス様が死からよみがえったという事実にだけ基づいているのではありません。その死とよみがえりが、神の永遠のご計画とそれを歴史の中で捨てることなく果たし続けてくださった神様の真実によるもの、もっというなら、私たちを愛するが故だということです。しかし、その聖書全体を貫く大きな『物語』にペテロが気付き、確信へと変わっていくための最初のポイントは、あのマリアたちの話しを聞きながら戯言のように思ったけれど、「もしかしたら」と思って立ちあがったことです。それがイエス様がよみがえられたという福音に対するペテロの最初の応答です。それは完全に信じたとまではいかなかったし、すべてを理解できたとも言えませんでした。それでも、そこから彼の人生の物語は大きく変わったのです。

今までイエス様に抱いていた期待と失意、イエス様を知らないと言って裏切ってしまったために打ち砕かれた自信と深い後悔、そういったものが、みことばによって新たな意味を帯び始めたのです。イエス様の十字架の死と復活によって神の約束された救いがほんとうは何であるかという新しい理解に導かれ、イエス様を裏切ってしまった自分でさえも、そのイエス様によって愛され、新しく生きる者とされ、福音を託されているという新しい人生の理解へと変えられるのです。

私たちが人生に行き詰まったり、信仰のことで思い悩んだり、思いがけない出来事に戸惑ったり、途方にくれたとき、天使は現れないかもしれませんが、聖霊なる神様が神のことばである聖書を「思い出せ」と私たちに語りかけます。聖書が私たちに、今直面していることに意味を与えたり、歩んで行く道標となるでしょう。まだ混乱し、迷いがあり、本当だろうかと若干の疑いがあるかもしれません。けれども「もしかしたら」という小さな心の動きがあるなら、それを消したり無視しないで、ペテロのように立ちあがって、確かめに行きましょう。忘れていた聖書の真理、大事な約束、教えを思い出し耳を傾けましょう。聖書は私たちの救いと新しい人としての歩みが、全世界を祝福し、回復するという大きな『物語』の大切な一部であることを教えてくれます。そんな大きな神様の愛と真実の中にいるのだから、私たちは恐れることなく、神様の御手にゆだねて生きていくことができます。そんな途方もない話しですが、最初は「もしかしたら」から始まって構わないのです。

復活のキリストのいのちが、私たち一人一人のうちで生きて働き、キリストにある新しい物語が始まりますようお祈りいたしましょう。

祈り

「天の父なる神様。主イエス様の復活を喜び祝う、このイースターに、最初の日曜の朝の出来事を振り返ることができ、ありがとうございます。

信じられずにいた弟子たちの中でペテロは、何か感じるところがあって飛び出したように、私たちも戸惑いや疑いがあったとしても、主が語りかけてくださるときに、小さな一歩を踏み出せるようにしてください。みことばによって私たちに大きな『物語』を見る力と神様の愛と真実に信頼する信仰を与えてください。

私たち一人一人のうちに、よみがえられたイエス様のいのちが生きて働きますように。イエス様のお名前によって祈ります。」

何を恐れているのだろうか

みなさん、おはようございます。
受難週の中でも土曜日は日没まで安息日ということで、聖書の中でも人々がどう過ごしたかは何も記されていません。静かに安息日を過ごしながら恐れ、後悔、混乱で心の中は嵐のようだったのではないかと想像します。ただ、イエス様を十字架に追いやった人々も気が気ではなくて、総督に頼んで墓の番をさせたりしています。
攻撃的な人が、相手に対していつも心理的に優位に立っているというわけではなく、かなりの割合で、実は恐れゆえに攻撃的になっているということがあります。その恐れの原因は攻撃相手に対する恐れとは限らず、その人自身のうちにあるものかもしれません。自分に対して攻撃的な人、敵意を示す人がいたら、何かを恐れているのだろうかと少し観察してみたら、案外こちらが落ち着きを取り戻せるかもしれません。

“悪しき者の恐れることはその身に降りかかり、
正しい人の望むことはかなえられる。” 箴言 10:24

今日は*****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

受難日に

みなさん、おはようございます。
昨日の聖書日課の箇所が最後の晩餐の箇所でした。パンと杯を分け合うことを教えた箇所ですが、それらは私たちの罪のための十字架での苦しみと、新しい契約のために流される血を意味しています。しばしば、この記念の時に「悔い改め」をもって望むよう教えられますが、もっと大切なことは感謝と喜びをもって主のなさったことを思い出し、受け取ることです。私たちはすでに赦しの中にあり、新しい契約の中にあって、新しく生きる者とされているのです。
今日は受難日です。どういう心持ちで過ごすのが相応しいのか、いろいろな考え方がありますし、いつもと同じように職場に向かって仕事に集中しなければならない人も多いことでしょう。深く考えたり、静まって過ごすことは難しいかもしれませんが、今日という日に生きていられるのは、イエス・キリストの十字架の苦難と復活によることなのだと、謙虚な心で過ごしたいと思わされます。

“キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。” 1ペテロ 2:24

佐々木真輝

伝承館

みなさん、おはようございます。
家族そろって休日を取れましたので、陸前高田の津波伝承館に行って来ました。震災に関する資料や証言はそれこそ膨大にあるはずで(私の本棚も震災関連の本だけで二段分あります)、それをまったく知識のない人たちに事実を伝え、防災意識を高めるためにまとめ上げるのは大仕事だなと思いましたが、そういう意味ではよく考えられ、展示されていました。後の時代の人たちに伝えるべきことが伝えられ、役立つことを願うばかりです。
信仰の歩みの中で経験したことや教えられたことを次の世代に語り伝えていくようにと、聖書では何度も教えています。警告であれ、励ましであれ、失敗とその中での恵みであれ、神様がどんなに恵み深く真実な方かを私たちの物語を通して伝えることができたら、一つの大きな役割は果たせたと言えます。

“後の世代の者 生まれてくる子らがこれを知り
さらに彼らが その子らにまた語り告げるため” 詩篇 78:6

今日は午後2時から(少し早まる可能性もあります)故****さんの納骨式があります。お祈りください。

佐々木真輝

2023-04-02 いつまでも残るもの

2023年 4月 2日 礼拝 聖書:コリント第一 13:13

 新年度に入り、最初の主の日は受難週のはじまりです。そして今年度は70周年を記念するいくつかの事業を行おうとしています。

およそ2000年前にイエス様が十字架への道のりを歩まれたことと、70年前にひとつの宣教師家族が川岸で伝道を始めたこと、そして今私たちがここにあることには深いつながりがあります。

教会の歴史は、イエス様がなしてくだったこと、教えてくださったことを世界中に拡げながら、それらを世代を超えて伝え続けて来た歴史です。二千年前のローマ世界のクリスチャンたちと現代の私たちでは話す言葉も、服装も、食べ物も、習慣も、社会の仕組みもかなり違いますが、同じ信仰、同じ希望、同じ愛に生きています。続きを読む →

エイプリルフールですが

みなさん、おはようございます。
今日は4月1日ということで「エイプリルフール」でもあります。小さな嘘から新聞社が出す壮大なジョーク記事まで飛び出すことが許される日という変わった風習がどこから始まったのかは諸説あってよく分からないようです。嘘は良くないのは確かですが、情報統制する独裁的な政府が「嘘は良くないからこんな風習に乗るな」と皮肉にも国民に呼びかけるようなことを聞くと、少しくらいの嘘やくだらないジョークを言えるくらいの方が人間らしくも思えたりします。
エイプリルフールの善し悪しは別として、以前読んだ心理学者が書いた『子どもと悪』という本をとても印象深く覚えています。悪い事は悪いことなのですが、子どもの発達段階の中であまり大ごとにならないような小さな悪の体験が成長のためにとても大切な意味を持っているらしい、ということにはっとさせられました。罪に堕ちたこの世界に生きる中で、意図せず、また自分を守るために悪を行ってしまう、そんな私たち人間の罪をも神様は成長の力に変えてくださるという恵みとして見ると、どれほどこの世界に神様の愛が注がれているかと思われます。大人になった私たちがすべきことは自分自身が神様の愛と恵みに応えて、なによりもまず神と隣人を愛する者になっていくことなのでしょう。

“神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。” ローマ 8:28

佐々木真輝

終わりは近い

みなさん、おはようございます。
桜の開花が予想よりさらに早そうだということで、昨日、北上市の「さくらまつり」の日程が繰り上げられることが発表されていました。桜の季節が早まるということは、スギ花粉の季節の終わりも近づくということなので、それはとても有り難いことです(もっとも、他の花粉や物質に反応する人には原因が一つ減るだけですが…)。桜が咲いたらしっかり楽しみたいと思います。
イエス様の再臨が近づけば、それだけ私たちの苦しみの終わりも近づくというものです。その日を待ち望み、自分の歩みに気を配り、ますます互いに愛し合うことに熱心でいましょう。主の日にはすべてが報われ、慰められれ、喜びにあふれることができるのですから。

“万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。” 1ペテロ 4:7-8

佐々木真輝