墓前礼拝

みなさん、おはようございます。
昨日はちょっと風が強かったですが、無事に召天者記念礼拝が行われました。改葬する予定だった合葬墓に思わぬ排水問題がみつかり、そこは残念でした。それでもコロナ禍でいらっしゃれていなかった方々がまたおいでになれたり、葬儀にはいらっしゃれなかったご遺族が参加してくださったりと、とても意義深い日でした。
墓前礼拝は遺族でない人や知っている人がいないとあまり関心を持てなかったりもします(それは分かります)。でも、時代は違っても同じ教会に連なった方々のことを考えたり、未信者の遺族の方々が年に一回だけでもキリストにある希望や自分のいのちと死について考える時を共有することは誰にとっても意味があります。今回参加できなかった方も来年はぜひ。

“知恵のある者の心は喪中の家にあり、
愚かな者の心は楽しみの家にある。” 伝道 7:4

昨日は****さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。
今日はオンラインの岩手同労者会(牧師会)があります。

佐々木真輝

2023-07-02 落ち穂拾い

2023年 7月 2日 礼拝 聖書:ルツ記2:1-13

 月に一度、年間主題に関連した箇所を開いていくシリーズですが、今日は有名なルツの落ち穂拾いの物語を取り上げます。

ルツ記は士師記とともに、出エジプトの時代と王国時代の間をつなぐ、とても大切な役割を担っています。モーセやヨシュアという偉大な指導者を失ったイスラエルは、王国時代に入るまで非常に混乱した時代の中にありました。人々は自分が良いと思うように勝手に生きていました。それは自由であるようで実のところ心に住み着く罪に囚われた生活になってしまい、宗教も道徳も社会も大混乱でした。神様は度々イスラエルの民を懲らしめるために他の国々がイスラエルを責め、奪うことを許しました。その度にイスラエルの民は神に赦しを乞い、助けを求めます。すると、神様は士師と呼ばれる指導者を起こし、苦境から救うのですが、しばらくするとまた元に戻ってしまう。そんなことを繰り返していました。

しかしそんな時代でも、アブラハムの子孫を通して世界に祝福をもたらすという神様の約束は反故にされることなく、目立たない存在でああっても、神に信頼し、希望を置く人々を通して守られていたことを示すのが、このルツ記です。続きを読む →

自分では手にとらないけど

みなさん、おはようございます。
先日、おやつにどうぞと「たくあんぱん」というパンをいただきました。「え!?たくあん入りのパンですか?」と驚きつつ、パンの中にたくあんが詰まっている様子を想像してしまいました。どんな感じなんだろうと恐る恐る袋を開け、パンを二つに裂いてみると、何の事はない、あんパンのあんこに刻んだたくあんが混ざっているものでした。食べても、あんこを食べながら時々漬物を食べるみたいな感じで、美味しくいただきました。自分からはたぶん手にとらなかったと思いますが、親しい人に勧めらたら、一度は試してみようと思うものです。
多くの人たちにとって福音はそのようなものかも知れません。自分から進んで聞いてみよう、学んでみようという人は、よほど深い求道心がある人で、大抵はちょっと興味は引いても「また今度」とパスしてしまうでしょう。けれど、親しい人、信頼している人から勧められたら「聞いてみようか」と思う可能性はとても高くなります。私たちのすべきことは無理に勧めることではなく、愛と誠実さをもって親しい関係を作ることがまず大事です。

“主に信頼し 善を行え。
地に住み 誠実を養え。” 詩篇 37:3

明日は朝7:30から墓園でテント設営があります。朝早いですが、いらっしゃれる方はよろしくお願いします。

佐々木真輝

あじさい

みなさん、おはようございます。
教会の紫陽花が綺麗に咲いていますね。教会にあるのはガクアジサイとホンアジサイでしょうか。紫陽花は園芸種として多くの品種があり、とてもじゃないですが覚えられません。これから咲きそうな株もありますが、とにかく雨の季節によく似合います。
紫陽花を見ていると教会のようだなと思うことがあります。小さな花が密集してまるで一つの花のようになっています。一つの株から幾つものの花の固まりをつけて見事な姿を見せてくれます。私たちも一人一人は小さく、また一つ一つの家庭も小さいですが、寄り集まって教会家族として結び合わされています。そうしたいくつもの教会がイエス・キリストに結びついているのです。使徒たちが紫陽花を知っていたら、どんなふうにたとえとして用いただろうかと想像してしまいます。

“こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。” エペソ 2:19

佐々木真輝

警告

みなさん、おはようございます。
今週は気がかりなニュースがありましたが、その一つは沈没したタイタニック号を見物にいった潜水艇の消息が分からなくなったというものでした。酸素が限られているので時間との勝負とされていましたが、どうも潜水してほどなく爆縮したものとみられ、生存の可能性はほぼないという最悪の結末でした。原因として指摘されていることの一つは、構造的な安全性への懸念で、実は問題が指摘されていたということでした。詳しいことは調査が進まないと分かりませんが、とても残念すぎる結末です。
警告には耳を貸さなければなりません。何事もなかったとしても、それはたまたま大丈夫だったというだけのことです。神様はこの世界に対して、そこに生きる人々に様々な警告を与えています。なんとか世の中がうまく回っているように見えても、人生そこそこやれているとしても、それはたまたまのことに過ぎません。真剣に耳を傾けるべきであることに変わりはありませんね。

“あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。” ヘブル 12:25

佐々木真輝

2023-06-25 神は光、神は愛だから

2023年 6月 25日 礼拝 聖書:第一ヨハネ1:1-4

 クリスチャンにとっての一つの課題は、長い人生の中で信仰を保ち続けることです。イエス様を信じて、喜びとともに信仰の歩みが始まっても、様々な出来事や心の変化の中で信仰を失ったり、迷うことは誰にでもありうることです。イエス様の救いが完全で「罪赦され神の子どもとされた者は聖霊の証印によって救いのうちに永遠に保たれている」とは言っても、私たちの信仰が弱ってしまえば、現実の暮らしの中で本来信仰によって受け取れる力も喜びも悟りもなしに生きていくことになりますから、それはそれで苦しいものになります。続きを読む →

滑舌

みなさん、おはようございます。
ラジオを聞いているとき、ちょっと「良い歌詞だなあ」と思いながら誰が歌っているか考えて見ましたが分からず、パーソナリティが曲紹介してくれるのを待っていました。とある人気(らしい)の音楽グループメンバーの方がパーソナリティを務める番組だったのですが、どうもお話が聞き取りにくい。結構頑張って聞き耳を立てていたのですが、よく分かりませんでした。
とはいえ、この滑舌問題は自分の問題でもあります。私も普段、メッセージを語る時に「ああ、今日も滑舌悪かったなあ」と反省してもいますので他人のことを言えた義理ではないのですが。何かを伝えたいなら、はっきり、しっかり伝える必要があります。伝える内容も大事ですが、伝え方も大事ですが、どちらの面でも、満足できるレベルにはなかなかなれません。もどかしさやがっかり感も感じ続けているのですが、皆さんの忍耐と寛容さに助けられています。

“また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。” コロサイ 4:4

佐々木真輝

2023-06-18 最後の仕事

2023年 6月 18日 礼拝 聖書:ペテロ第一1:1-15

 数週間前、SNSを通じて牧師たちの間で「宣教師を名乗ってあやしい勧誘をする人たちがどこそこの地域を回っているから要注意」という情報が流れました。実はこうしたことは度々あります。ペテロの時代も偽教師と言われる人々の存在がしばしば教会を混乱させていました。

ペテロの手紙第二は、いわばペテロの遺言のようです。第一の手紙と同様、今のトルコにあたる小アジアのクリスチャンを念頭に書かれた手紙ですが、最初の手紙から状況は少し変わっていました。続きを読む →

アンテナ

みなさん、おはようございます。
よく畑仕事のかたわらに置かれているラジオ(緑色のやつ)を私も持っています。少々の雨なら平気だし、何より電池が長持ちです。高度な機能もないので壊れにくいのです。しかしこのラジオの唯一の弱点はアンテナでした。去年、アンテナを仕舞おうと思った時に変な力を掛けてしまい、折れてしまいました。まだつながっていたのでアルミテープで巻いてしのいでいたのですが、今年ついにポッキリ折れてしまったのです。それで交換用のアンテナを取り寄せて交換しました。前より少し太めで長いアンテナなので、感度も良くなっています。
ラジオの電波はアンテナを立てないとうまく受信できません。神様の語りかけを聞き取るためにもアンテナを立てておく必要があります。私たちのアンテナは「聞く耳を持つこと」です。習慣的に祈ったり聖書を読むだけでなく、神様が何を語ろうとしておられるか聞こうとする心で祈り、聖書を読むこと。日々の暮らしの中での気付きに神様のみ思いを知ろうとすることなど。ばっちり長いアンテナを立てるように、「しもべは聞きます」という心でいましょう。

“主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。” 1サムエル 3:10

昨日は***さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。

佐々木真輝

いつの間にか咲いた花

みなさん、おはようございます。
お気づきの方も多いと思いますが、しばらく前から教会の玄関のコンクリートと煉瓦の隙間にパンジー(あるいはビオラ?)が咲いています。玄関に飾ってあるものと同じ種類なのですが、どうやってそこに芽を出し花を咲かせたのかは分かりません。種がこぼれたのでしょうか。昔、アスファルトの割れ目から生えた「ど根性大根」が話題になったことがありますが、間違いなくずっと可愛いです。不思議ですが、とにかく咲いている場所が場所だけに、なんだか健気で踏んだりしないよう気をつけて歩いています。
福音の種にはいのちの力が宿っているので、思いもかけないところで芽を出し花を咲かせることがあります。人知れずしぶとく咲き続けることもあります。私たちは福音の力を信じて種を蒔き、植え続けましょう。

“またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。” マルコ 4:26-27

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝