久しぶりに会う

みなさん、おはようございます。
月曜から昨日にかけて神学校の仕事で仙台に行って来ました。そのついでに一人暮らしをしている義理の母をもとを訪ねて来ました。いつ以来かなと思ったら、去年の6月以来だったそうです。泊まりは負担になるので、わずか数時間だけの滞在。その間に積もる話を聞き、頼まれていた用事をいくつか済ませ、最後にお祈りして帰るだけです。それでもコロナが流行りだして以来、なかなか気軽に行けなくなってしまっていたので、実際に顔や生活の様子を見ることができて安心しました。
皆さんにも気になりながらもしばらく会えていない人がいるかも知れません。そんな状況もいつまでも続くわけではありませんし、きっと機会は作れます。主ご自身とお会いする日もそのうちやって来るでしょうが、そのときどんな話しをすることになるんでしょうね。

“主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。…” 出エジプト 33:11

佐々木真輝

主の晩餐

みなさん、おはようございます。
今日は第一主日ですので、月に一度の「主の晩餐」を行います。月に一度だけ行うというのも、第一主日にするというのも、ただの慣例なので、大事なことはイエス様が守るようにと教えた「主の晩餐」を記念するということです。主の晩餐を行う時には、これまた慣例に従って、黙想と悔い改めの時間を持つのですが(それ自体は意味のあることです)、主の晩餐は厳粛な気分で守るべきものというより、キリストの十字架によって私たちが赦され、新しい契約のもとで神の家族とされたことを感謝し喜びとともに記念するものでした。
コロナのためにしばらく主の晩餐に参加できていない方々もおられることに心が痛んでいますが、離れた場所にいても、同じキリストの恵みの中にあることを覚えています。

“そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、” 使徒 2:46

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

2023-02-05 ついには正義の雨が

2023年 2月 5日 礼拝 聖書:ホセア10:9-12

 最近、某回転寿司チェーンで、いたずらにしては度を超したことをしでかした様子が動画で出回って大騒ぎになっています。こうしたことは以前からもありましたが、今回は本人と両親が謝罪しても損害賠償の裁判を起こすことになりそうだと記事で読みました。実際の損害を計算するのは法律的には結構難しい問題のようですが、それでも未成年だからといって謝って済む話しではないと多くの人が思うことでしょう。これは教育やしつけ、企業経営に関する問題ではありますが、根底には正義の問題があります。損害に対しては応分の報いが与えられるべきだ。未成年の子どもには責任能力があるのか、どこまで罰せられるべきか、いつも議論となります。

正義がなされていないと私たちが感じるとき、怒りと正義を求める思いが沸き起こってきます。クリスチャンは互いに赦し合うことや和解の務めを教えられていますが、しばしば、この正義への求めが満たされないために赦しや和解を難しく感じます。続きを読む →

手がかりを求めて

みなさん、おはようございます。
今年の芥川賞を受賞した仙台出身の作家が書き上げた『荒れ地の家族』という本を手にして読み始めました。震災によって仕事の道具を全て失い、2年後には奥さんを病気で亡くした植木屋さんが主人公と聞き、なんだか今は花巻におられるHさんを思い浮かべずにはおられずすぐに注文したのでした。先日、話題の映画『すずめの戸締まり』を観たときも、悲しみと痛みがよみがえってなかなか辛かったですが、この本もそれ以上の重みをすでに感じさせます。ゆっくり読んでいくことにします。
人はどうして、そういう悲しい物語を読みたがるのでしょう。自分の心の中に潜んで時々暴れ出す悲しみや痛みと向き合い、寄り添うヒントを求めているのかもしれません。イエス様の慰めを知った者であったとしても、具体的な手がかりを探すものかもしれません。

“悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。” マタイ 5:4

佐々木真輝

ちょっとお休み

みなさん、おはようございます。
昨日は3.11いわて教会ネットワークのミーティングが大船渡であったのですが、実は今回、パスさせていただきました。なかなか休みが取れていなかったことと、昨年のコロナ罹患以来、疲れやすさが抜けずにいるので休ませていただきました。代わりに、温泉施設でだいぶゆっくりさせていただきました(お風呂に入っているより休憩室で寝ている時間のほうが多かったかもしれません)。お風呂も贅沢な昼寝も気持ち良かったですが、たとえ数時間でも仕事や役割から離れることがリフレッシュになります。あとは、小さい子と店員さんの面白いやり取りとか。
イエス様がご自分の多忙さにもかかわらず、弟子たちを気遣い、休みを取らせようとしてくださったことを思い出します。本当は、きっとイエス様のほうがかなり疲れていたんじゃないかと思います。そう、イエス様は私たちの疲れ、忙しさ、ストレス、ちゃんと分かってくださっています。

“するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。” マルコ 6:31

佐々木真輝

2023-01-29 上にあるものを思って

2023年 1月 29日 礼拝 聖書:コロサイ3:1-11

 走るときは、足元ばかり見ないで、顔を上げゴールを見ることが大事と言われます。山登りするときも、足元はしっかり見なければなりませんが、たえず顔を上げて周囲を観察することが大事です。

頭を下げたり、下を見るのではなく、頭を上げ、視線を上げることが体全体の姿勢やバランスにとってとても大事なことのようです。同じことが信仰の歩みにも言えます。続きを読む →

ゆっくり温めて

みなさん、おはようございます。
昨日はさすがに寒かったですね。大雪ではなかったのでだいぶ助かりましたが、それでもかなりの厳しさでした。皆さん、ご無事に過ごされたでしょうか。教会の水道は電熱線を巻いているのですが、それでも蛇口部分が凍りついたりします。凍った水道管や車のフロントガラスを解かすときには熱湯をかけるような急激な温度変化は良くないと言われます。金属やガラスが割れてしまうことがあるのです。ゆっくり温めることが大事のようです。
私たちの心に凍り付いた部分があるとき、イエス様がそれを解かす時も壊れてしまわないように、ゆっくり温めるようにして解かしてくださいます。その凍り付きが強ければ強いほどにじっくり時間をかけてくださるように思います。

“主が みことばを送ってこれらを溶かし
ご自分の風を吹かせると 水は流れる。” 詩篇 147:18

今日は婦人会があります(祈祷会はお休みです)。

佐々木真輝

助けてもらう

みなさん、おはようございます。
昨日は神学校の仕事で、アメリカの関係者とオンラインの会合がありました。毎度のことながら英語でのミーティングは時間とともに集中力が下がり、それとともに理解力も落ちていきます。冗談は通じるのに、肝心なテーマについての話しは難しい単語が出て来たり、文章が長かったりしてどうしても聞き取れません。話すにしても簡単な受け答えは出来ても、概念的なことを話したりするのは本当に難しいです。しかし、ちゃんと英語を話せる先生が一緒だったので、通訳をしていただけるので大分助かります。以前はコンプレックスを感じましたが、今は「お願いできることはやってもらう」と思えるので気が楽です(ちゃんと英会話をマスターしておきたかったとは思いますが)。
出来ないことを出来るように努力したり、分からないことを学んだりするのは成長のためにもちろん大事なことです。でも、出来ないことをやってもらう、分からないことを教えてもらう、足りないところを補ってもらう、そういう助け合いのほうが大事な場面もあります。家族でも、教会でも、社会でも同じです。

“兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。” ガラテヤ 5:13

今日はかなりの寒さのようです。どうぞ皆様お気を付けてお過ごしください。

佐々木真輝

戻って来た葉書

みなさん、おはようございます。
先日、海外に送った葉書が戻って来てしまいました。「住所違い」でもなく、「宛名違い」でもなく、ただ戻って来たのです。どうやら郵便局のほうで宛先と差出人を取り違えたようです(窓口で指摘されて、ちゃんと宛先がどちらか分かるように書いたんですけど、英文表記だからこんなこともあるのでしょう)。そういえば違う住所の方への郵便物が誤配されたのもつい先日のことでした。別に責める気はないですが、残念ではありました。
手紙ではないですが、イエス様の御名によって祈る祈りは、神様にちゃんと届いています。無情に差し戻されることも、どこか別のところに間違って届くこともありません。そして神様からの返事は、さまざまな形で届くので、よく目を凝らし、心を研ぎ澄ませておく必要があります。意外なときに、意外な仕方で届いていることが多いのです。

“あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。” ヨハネ福 15:16

佐々木真輝

2023-01-22 ますます豊かに

2023年 1月 22日 礼拝 聖書:ピリピ1:1-11

 私は経験ありませんが、親しい人が無実の罪で牢に入れられたらどういう気持ちになるでしょうか。何を心配するでしょうか。

時々、知り合いの牧師たちが海外から仕事に来た方たちがビザの問題や困った事情で牢屋ではないけれど、入国管理局に閉じ込められてしまい、そうした人たちを支援しているという話しを聞きます。そこには日本の社会にある矛盾や制度上の不備、人権についての考え方の問題があるので、苦しんでいる人たちへの思いやりとともに正義感も働いているのかなと思います。

何かの容疑で囚われの身となったら、完全に無実を信じることができるか分かりませんが、少なくとも健康状態や精神状態は心配するでしょうし、十分な助けがあるか、何か助けになることはあるかと考えるのではないかと思います。

ユダヤ人の陰謀のため、ローマ帝国の獄中にあったパウロに対するピリピ教会の心配がこの手紙の背景になっています。続きを読む →